ネットの実名と匿名

Tue, 25 Jan 2011 04:59:14 +0000

何故かうちの自動車部の連中と学務部次長にはよく知られているのだが、Twitterにはまっている。おかげで、ブログの更新がこれまで以上に滞っている。まあ、そうでなくても定期試験・卒業研究・入試のシーズンなので、纏まった文章を書いている暇はないのだが。そう、140字というのは非常な制限で、そんなもんかけるかい、というのがこれまで手を出してこなかった理由だが、逆に140字で、自分に向かって適当に書けばいいというところが続いている理由だと思う。学生には「僕のタイムライン先生のつぶやきで占領されてしまってますよ」と叱られてしまった。私のタイムラインは他所の大学の先生のつぶやきで一杯で27インチのiMacの画面を相当スクロールしないと自分のなど出てこないのだが。

さて、今朝のタイムラインでも少し見かけたのと、私自身少し考えることがあったのでTwitterに限らず、ネット上の実名・匿名について思うところを認めてみたい。私の意見の骨子は

である。

ネット上の実名・匿名については著名なビジネス書の著作家と巨大な匿名掲示板の創始者の対談が少し前に話題になったが、このての議論は常に実名側からの匿名批判と「実名にすべし」の要求に対し匿名側からの言訳と「トレースのコストは同じ」と言う反論に終始する。私自身は匿名と実名はある意味evenであると思っている。ネットで情報発信をする以上何かしら目的があり、その目的に対して情報発信者の個人情報の露出を最適化しているはずで、ある人が匿名か実名かはその人にとって、正確にはその人の目的に対して有利になるように、少なくとも不利にならないように選択されている。したがって一方が一方を非難したところで、それは価値観の押しつけどころか、単に自分の都合の押しつけでしかない。

ところが総合的には対等でも、ある切り口で見れば両者は対等ではない。たとえば発信される情報の信頼性、正確には信頼性があると受け止められることが期待できるかという点に関しては、匿名の情報発信はどうしても不利と言わざるを得ない。従って匿名の情報発信者が信頼性を得る為には、信頼性の検証可能性を担保するtraceabilityを示す必要が生じる。もちろん実際には実名の情報提供者にとってもtraceabilityの提示の必要性は同しことなのだが、実名の情報発信者は実名であること自体がtraceabilityの担保だという幻想を植え付けようとしているのである。そしてそれはある程度成功していると思われ、それを以て実名側は匿名側を攻撃するわけであるが、それは本末転倒でなのである。より正確には実名側の利益に反する。実名側の実名のメリットは、実は匿名の存在それ自体にある。匿名でいい加減な情報を発信するものが多ければ多い程、「実名なのだからそうそういい加減な情報発信はしないだろう」という幻想のもと、実名の情報発信者は容易に信用を得ることができるのだから。したがって、まっとうな匿名がいい加減な匿名を糾弾するのは理に、いや利にかなっているのだが、実名がどのような匿名であれ匿名を攻撃するのはあまり益のあることではない。

実名の情報発信者にとって最大の敵は実名でいいかげんな情報を発信するものなのである。実名であるということは所属する組織やコミュニティーをも明らかにして情報を発信することを意味する。その組織やコミュニティーの名を出すこと自体が情報の信憑性に関して有利に働くことを期待しているのである。したがって不正確な情報はもちろんのこと、組織やコミュニティーに属する者を不当にinsultする言説にこそ抗議しなければならない。これは決して内部告発のようなものを否定しているわけではない。それは組織やコミュニティーを浄化したいという意志の現れだと考えるからである。ただし、内部告発のようなものこそ、まさに匿名でなされるべきものかもしれないが。

Twitterの興味深い点は実名でも匿名でも、その情報の信頼度を大きく左右するtraceabilityが確保されていることである。もちろんネットのサービスであるからcheatしようと思えばいくらでもcheatすることは可能ではあるけれど。実名でも匿名でもそのアカウントの人物がこれまでどんなことをつぶやいてきたかを検証することは容易で、それがその人物の言説をどう受け止めるべきかの判断に大きな影響を与える。

というわけで、いつもあのばかばかしいお笑いネタをつぶやいているんだ、いつか「あれはいつものように単なるネタですって」って言訳できるように。決してあの「おバカ」が本質じゃあないんだよ。本当だよ。たぶん。