最近議論をしていると「リベラルアーツ」「教養教育」といった言葉が「共通教育」「初年次教育」「リメディアル教育」といった言葉とともに無定義でもしくは多義的に使われたり、使われた資料を使って議論したりすることが多い。
あと、○○力ってのもよく聞くけど、あれは私自身は絶対に使わないことにしている。 「力」は一般に何かしらのpower, ability, forceの訳語としてよく使用されるが、学士力などという訳のわからない言葉は使わないで欲しいものだ。因みにかみさんの仕事1)を見て気がつくのだが、変な日本語かどうかは一度英訳したらどうなるかを考えてみればよい。英訳したものを日本語にしたとき、適切な日本語があるときはそっちの日本語を使ったほうがよい。もし英語に訳せないときは文学作品中でない限りその言葉は使うべきではない。閑話休題。
通常、初年次教育は専門学修の「動機付け」に関する取り組みと捉えられており、リメディアル教育は高校教育の補間というよりも文字通り補習もしくは再教育の意味合いが大きい。いずれにせよ、それは大学一年次の学生を主な対象としており、その時期に大学で行われる教育は専門に特化した科目ではなく所謂「一般教養」、共通教育科目である。かつてはどこの大学にも教養部なるものがあり、そういった教育を一手に担っていた。10年ほど前を最後に2)、ほとんどの大学ではこの教養部が解体され、学生は専門学部や学科が定める基準に従って「一般教養」を履修するという形になっている。教養部がもっていた機能にはいくつもあるが、その中のひとつが高校の学修と大学の学修の接続に関する情報収集とノウハウの集積があげられる。これには入試関係の知識や技術も含まれる。教養部がなくなり、それまでは「教養課程」から「専門教育課程」に進級してきた大人の大学生に大学風の教育をし、「最近の学生は「教養」で全然勉強をしてこない」と嘆いていればよかった専門教育の教員が、昨日まで高校生だった18歳のエイリアンと正面から向き合わなければならなくなってしまったわけである。
そんなエイリアンたちと対決するのは誰だっていやである。こちとら大学の教員として変なブライドだけはある。高校の教員のような真似はしたくない。そもそも大学の教員のなけなしの威厳の源泉は高校教員のように細かいことをつべこべ言わないところにある。忌野清志郎の僕の好きな先生みたいな先生なら生徒たちも言うことを聞くかもしれないが、それはもともとあんまり細かいことをつべこべ言わないからであり、教員仲間からは疎まれていたに違いない。事務方はここんところがわかっていない。教員に学生の生活指導まがいの業務をさせていると、学生は他の学修に関する事柄についても教員の言うことなど聞かなくなってしまうのだ。とはいえ、避けてばかりもいられないということで、諸問題に対応する教養部の様なものを新しい装いで復活させよう、というのが現在の構想だと理解している。しかも、中教審の答申にある学士課程教育にも対応しようという、盛りだくさんというか無謀というか船頭多くても泥舟は沈むのみというか、訳のわからん議論になろうとしている。まあ、そこで火事場泥棒的にやりたいことをとっととやってしまおうという不届き者もいるわけだが。
三学ってのはまさに日本の教育の弱いとこだな。学問としては一番受験に載せやすいところなのに、ほとんど学校ではやらないってのは、そのこと自体研究に値するのかもしれない。いくらastronomyが入っていると言っても文字通り「天文学」が重要という意味ではないと思うな。中世なわけで、まだphysicsの影も形もなく、chemistryはalchemistから脱却していない時代「天文学」と「音楽」がいかなる役割を果たしていたのかを考えるべき。